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第1回. [序章] ~ 麻雀「プロ」の創生、共生、新生 ~➀(バビィの新・「プロ論」)
▼ 2023年1月に、写真やイラスト満載の『馬場裕一の見た夢』が発売されています!
[更新日:2024/07/30、公開日:2016/03/01]
月刊「麻雀界」で連載されていた、バビィの新・「プロ論」。以下、「2016年2月1日発売号」の連載内容を特別に掲載させて頂いています。(太字・色づけ等は当サイトにて付与)
▼▼▼ ここから馬場プロの連載より ▼▼▼
5年の歳月がもたらした「変化」
「麻雀界」の読者の皆様、ご無沙汰しております。バビィこと馬場裕一です。
5年ぶりにこの場に舞い戻ってまいりました。どうぞ、よろしくお願いいたします。
さて、「バビィのプロ論」の連載を終えてから5年余。この間、麻雀業界および麻雀プロの皆さんには様々な「変化」がもたらされました。
もっとも影響を与えたのは、5年前の連載時にも指摘したことですが、ニコ生、SNS、オンライン麻雀等のネット世界であります。インターネットは麻雀を「打つゲーム」から「観るゲーム」へと進化させました。
インターネットで麻雀を覚え、スキルを上げ、さらにネット上で開催される競技大会に参加するという新たな麻雀ファン層も開拓されました。
「麻雀プロ」が創造された40~45年前、誰がこの新時代の到来を予見できたでしょうか。昨年、麻雀界編集部から、同じテーマでの再連載を依頼されました。仮タイトルは「新プロ論」。
新時代を迎えた麻雀業界の考察や、麻雀プロの皆さんへの提言を綴る(つづる)というものでしたが、そのとき僕はふと思ったのです。「新プロ論」を語る前に、麻雀プロの歴史を検証しておく必要があるのではないか、と。
たとえば――
「麻雀プロ」というカテゴリーはなぜ誕生したのか。
「麻雀プロ」のタイトル戦が創られた理由は何か。
「麻雀プロ」の団体はどういう経緯で設立されたのか。
「麻雀プロ」の団体はどうして分裂していったのか。
――等々
おそらく多くの若い麻雀プロの皆さんはこういった質問に答えることはできないでしょう。それどころか「事実誤認」をしている人も少なくないようです。
温故知新ではありませんが、麻雀プロの誕生から現在までの歴史をきちんと整理しておかなければ「新プロ論」を論じることはできない――僕はその思いを強くしたのです。
そこで本論に入る前に、まず序章として「過去」を検証していくことにしました。
一部資料は引用するものの、大部分は僕の「目線」や「記憶」をベースに筆を進めさせていただきます。
なぜなら、僕の麻雀史そのものが「麻雀プロの歴史」につながるからなのです。なので、しばらくは「自分史」を語る形になりますが、その点はご容赦ください。
バビィの原点
僕が麻雀を覚えたのは昭和48年、中学二年生の時でした。
奇しくも「近代麻雀」(竹書房)が創刊された年です。
麻雀専門誌としては「プロ麻雀入門」(新評社)が先でしたが、定期刊行物(月刊誌)では近代麻雀が初。
麻雀を打つ場所がなく、ネットもゲーセンもゲーム機もない時代、僕の楽しみは近代麻雀と毎週金曜日に放送される「11PM」の実戦麻雀教室でした。
ただ、当時の僕は14歳。近代麻雀は読解するのに難しく、11PMは親の目を盗んで観なければならないという厳しい環境。
それでも近代麻雀を通じて「阿佐田哲也」に、11PMを通じて「小島武夫」を知ることができました。
お二人は僕にとって憧れの存在となったのです。
さて、高校に入学した昭和50年。この年、僕の麻雀人生を決定づける出来事が起こりました。誌面構成が変わった近代麻雀、読解能力に長けてきたこともあり、もう面白くてたまらない。
対局も戦術も対談もコラムも小説も劇画も読者欄も編集後記も、僕は毎日のように読み耽り(ふけり)ました。
同じページを何度も何度も。通学時にも持参し、電車の中や教室、学食、所構わず近代麻雀を開いていたのです。
そして、ある日、通学途中で僕はとてつもない飢餓感に襲われました。
「次号を早く読みたい!」
衝動的に電車を乗り換えて飯田橋へ。そう、詰襟(つめえり)の学生服姿で僕は竹書房へ向かったのです。今思えば、無茶苦茶な行動でした。
学校をさぼって発売日前の麻雀専門誌を直接買いに行く高校生なんて、どこにもいなかったでしょう。当時の竹書房の社員の方も驚かれたことと思います。
しかし、詰襟の高校生が近代麻雀の熱烈な愛読者だと知るや、僕は強引に社長室に連れて行かれました。そしてそこで野口恭一郎氏(故人)と出会うのです。
(つづく)
▲▲▲ ここまで馬場プロの連載より ▲▲▲
▼ 上記は、月刊「麻雀界」2016年2月1日発売号に掲載された内容です。