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第3回. [序章] ~ 麻雀「プロ」の創生、共生、新生 ~➂(バビィの新・「プロ論」)
[更新日:2024/07/30、公開日:2016/05/01]
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月刊「麻雀界」で連載されていた、バビィの新・「プロ論」。以下、「2016年4月1日発売号」の連載内容を特別に掲載させて頂いています。(太字・色づけ等は当サイトにて付与)
▼▼▼ ここから馬場プロの連載より ▼▼▼
麻雀ブームの到来
時代をちょっと遡って、昭和40年代の麻雀ブームについて触れておきましょう。
高度成長期に入ったこの時代、麻雀はサラリーマンの「必須科目」とされました。
営業対策、あるいは社交術として「接待麻雀」や「麻雀大会」が頻繁に行なわれるようになったからです。
現在の「接待ゴルフ」や「ゴルフコンペ」を思い浮かべてもらえばいいかもしれません。
そんなサラリーマンたちの麻雀熱に拍車をかけたのが二冊の麻雀戦術書でした。
五味康祐(ごみ やすすけ)氏の「五味マージャン教室」(1966年・光文社)と阿佐田哲也氏の「麻雀の推理」(1969年・双葉社)です。
※注「麻雀の推理」は後に「Aクラス麻雀」と改題。
芥川賞受賞作家の五味康祐氏
続いて阿佐田哲也氏の麻雀小説「麻雀放浪記」(1969年~・双葉社 [後に、文春文庫・角川文庫でも刊行])が爆発的な大ヒット。
また、1968年から深夜番組の「11PM」で大橋巨泉氏による「麻雀実戦教室」が毎週金曜日に放映され、サラリーマンだけでない麻雀ファン層を開拓しました。
この番組で、小島武夫氏が麻雀ファンの前に初めて登場したのであります。
「麻雀放浪記」の阿佐田哲也氏と「麻雀実戦教室」の小島武夫氏、二人の運命的な出会いは神保町の麻雀荘「あいうえお」。
「当時ね、僕はそこで働いていたのよ。200卓以上もある麻雀クラブでね。神保町界隈の全麻雀クラブの卓を集めても200卓無かったからすごい大きな麻雀クラブだよね。そこの4階が寮と食堂になっていてそこに住みながら働いていたのよ。そこへ阿佐田先生、加太こうじさん、三遊亭円楽さんといった著名な人が4人来て、文芸社の漫画読本という雑誌の雑誌対局をやったんだよね。当時僕は11PMに出ていたんだけど、それを阿佐田先生も見ていたみたいで、僕にちょっと興味を持って、まあいっぺんちょっと麻雀を打とうかと言われて――」
(小島武夫・MONDOTVスペシャルインタビューより抜粋)
200卓と聞いただけで、当時の麻雀ブームの凄さがわかりますよね。
阿佐田哲也氏と小島武夫氏の出会いは、ブームにさらなる拍車をかけることになりました。
昭和45年(1970)、週刊大衆(双葉社)誌が「麻雀名人戦」を設立。
日本初と言っていいこの麻雀タイトル戦に阿佐田哲也氏も小島武夫氏も出場します。
ここでポイントとなるのが、誰が「名人戦」を創ったかです。
巷間では阿佐田、小島両氏の発案ということになっていますが、もちろん間違いではありませんが、実質的なプロデューサーは二人の有能な編集者でした。Y氏とM氏です。
「麻雀メディア」が「麻雀プロ」を創る、という構造が出来上がったのが、この名人戦だと僕は思っているのですが、詳細に関してはまた改めて記しましょう。
(つづく)
▲▲▲ ここまで馬場プロの連載より ▲▲▲
▼ 上記は、月刊「麻雀界」2016年4月1日発売号に掲載された内容です。