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第12回. [序章] ~ 麻雀「プロ」の創生、共生、新生 ~⑫(バビィの新・「プロ論」)
[更新日:2024/07/30、公開日:2017/02/01]
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月刊「麻雀界」で連載されていた、バビィの新・「プロ論」。以下、「2017年1月1日発売号」の連載内容を特別に掲載させて頂いています。(太字・色づけ等は当サイトにて付与)
▼▼▼ ここから馬場プロの連載より ▼▼▼
『プロ麻雀界』の元祖
「麻雀界」の読者の皆様、新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
さて、「実」の麻雀界の創造を目指した古川凱章氏と麻雀メディア。
「実」とは具体的には、囲碁や将棋の世界を指します。
全国紙の新聞に牌譜が載り、NHKで入門講座や対局が放映され、企業スポンサーが付いた高額賞金のタイトル戦が開催される。
そういう未来を夢見ていたのです。
当時の「プロ志望」の若者たちも、いつかそんな時代が来る、いや来てほしいという願望をもって、彼らなりのプロ活動に勤しみました。
当面の目標は、麻雀メディア主催のタイトル戦に出場し、そこで優勝すること……いや、「当面」などではなく、それが彼らの全てだったかもしれません。近代麻雀の初代編集長である板坂康弘氏が、以前こんなことを言っていました。
「タイトルをとれば有名になり、豊かな生活をできる収入が得られると(プロ志望の若者たちは)思っていた節がある」
これは大いなる勘違いだったのですが、麻雀新撰組というスター集団の存在が、その「幻想」に影響を与えたことは確かでしょう。
・最高位戦Bリーグ(新人王戦)
・王位戦
・阿佐田哲也杯
・新鋭トーナメント戦
これらがプロ志望の若者たちが目標にしたタイトル戦でした。
そして、その先には、
・名人戦
・雀聖戦
・最高位戦Aリーグ
がありました。
では、当時の若者たちは、どうやって糊口(ここう)を凌いでいたのか。
大学生が中心だったとはいえ、裕福な家庭でない限り、プロ活動(?)に勤しむことはできない。
多くの若者たちが、麻雀荘に身を投じることになります。
プロ志望なのですから腕には自信がある。大好きな麻雀が打てて、しかもそれが収入につながるなら、こんなに素敵なことはない、と思ったのかもしれません。かく言う僕もその一人でした。
縁あって「渋谷若獅子戦」というプロ志望のサークルに入った僕は、そこで初めてのメンバー業を体験することになります。
違法だらけのエピソードで恐縮なのですが、今から40年近くも昔のこと、もう時効でありましょう。
渋谷若獅子戦は、渋谷の小さな(六卓程度?)セット麻雀荘を根城(ねじろ)としていました。
その半分をママさんと契約して借り受け、対局以外のときにそこで東風戦のフリーを営業していたのです。
若獅子戦の選手の一部が、そのメンバーを兼ねていました。徹マンは日常茶飯事。明け方にお客さんがいなくなると、集まったゲーム代をメンバーで分配するという、何とも原始的というか、とても「商売」とはいえない営業形態でした。
違法過ぎて、これ以上は書けないのですが、そういう日々が楽しかったことは間違いないです。
いつか小島武夫氏や古川凱章氏のような有名プロになるための、これは修行の場であり、糊口を凌ぐ手段であると思っていたからかもしれません。
若獅子戦以外のプロ志望の若者たちも、いろいろな麻雀荘で生活を支えていました。中には会社を退職して、麻雀荘を開店させてしまった人まで出てきたのです。
それでも、目標は麻雀荘のオーナーではない、あくまでも生活するために開いた、というのですから、今では考えられない情熱というか行動力といえますね。
それだけ草創期の麻雀界には、若者を熱狂させる「何か」があったのです。麻雀の腕だけがものを言う世界、それが当時のプロ志望の若者たちを取り巻く環境でした。
麻雀が弱ければ何の発言力も持てない、ある意味「弱肉強食」の時代だったといってもいいかもしれません。
そして遂に、一人のスター選手の誕生を迎えます。
最高位戦Bリーグで優勝し、第5期の王位を獲り、プロ志望の若者たちの中で一番最初に最高位戦Aリーグ入りを果たした弱冠24歳の若者。荒正義プロが、その人です。
現在日本プロ麻雀連盟の副会長にして、現役プレイヤーとして活躍を続けている荒正義プロ。若者たちにとって荒プロは希望の光でした。
そして荒プロの登場によって、麻雀界も麻雀メディアも、新たな方針を模索し始めるようになるのです。
(つづく)
▲▲▲ ここまで馬場プロの連載より ▲▲▲
▼ 上記は、月刊「麻雀界」2017年1月1日発売号に掲載された内容です。